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140文字に収まらないテクノロジーとか日常とかのこと

父を膵がんで亡くしました

私の父は昨年12月、還暦を迎えたばかりの頃に膵がんで余命半年と宣告を受けていました。 父のことはこの1年間何度も文章にしようと思っては、悲しくなるだけなのでやめてきました。 父が私の人生に与えた影響や偉大だった父のことを周りの人に知ってもらうために書いてみました。


父は外科医でした。せっかちで細かい性格で、たまに怒りを爆発させるタイプの人でした。いつも仕事が忙しかったんだと思います。 休日も常に急いでいる人でしたが、子供の頃は毎週のように必ずヨットで海に出たり、娯楽施設に連れて行ってくれたりしていました。国内旅行にもよく家族で行ってました。 父がぐうたら過ごしている姿は一度も見たことがなかったです。 父は私にとっては人生で最も対立した人であり、最も尊敬し憧れた人でもありました。 特に幼少期は家庭では厳しくて、怒り出したときはいつも心底怖かったです。 思春期あたりから、自分からは積極的に関わらないようになっていました。受験期あたりから、心底父が嫌いでした。 それでも父はたまに寿司屋に連れて行ってくれたり、車で出かけるけど乗っていくか?と誘ってきてくれていました。 私が大学に入って好きなことを学んで、天職だと思える仕事をするようになって、たまの帰省でやっと楽しく過ごせるようになりました。 そんな父が人生を通して私に残したメッセージは、

  • プロフェッショナルであれ(Be professional)

  • 全身全霊を捧げ尽くせ(Be running on empty)

の2つだったと思っています。

このたった2つですが容易でないことを体現しながら私は生きていかなければいけないと思っています。 また、父が背負ってきた家族のリーダーシップのようなものを長男である私が背負っていかねばならないと思っています。 この喪失感が消えることは生涯ないと思いますが、忌引明けの今日からまた錨をあげ、帆を張って人生という大海原に出ていきます。


以下、通夜・葬儀の思い出話です。

父は亡くなった11/19(金)の前日まで九州の片田舎で地域医療に貢献したい一心で医師として働いていました。 この日、人生初めて、父からの間違い電話がありました。往診に向かったものの、帰りに歩くのがキツくて、スタッフに迎えを頼む電話だったようですが、東京に居て仕事中の私にかかってきました。 電話に出たのが私だと気づいて、間違いだよ、と言ってすぐに電話を切られましたが、それが最後の会話になりました。 そのとき、嫌な予感がしました。うっかりミスなどしない父なので意識がハッキリしているのか不安がありました。しかし、私は仕事中だったこともあり、母に間違い電話があったことだけを伝えて、業務に戻りました。 父はその後、土曜日に開催予定だった私の結婚祝いの食事会に備えて、床屋で髪を切って自分で車を運転して帰宅していたそうです。 帰宅後、仕事のメールまで書いていたようですが、その夜は嘔吐し階段の昇り降りするときなど体に力が入りづらいような様子だったそうです。

寝る前に次の日に仕事に行くためのネクタイを選んで寝室に置いていたそうです。 そして迎えた金曜日の朝は仕事に行かないといけない、と言いつつ起き上がることが出来ず、午前9時33分に自宅で静かに息を引き取ったそうです。

この1年間、抗がん剤放射線などの治療をしないという選択をし、事業の継承・様々な家のことの片付けを全て済ませて旅立っていった父は独立心と責任感が人一倍強かったと改めて思います。 同居していた母や弟の手を借りて生活することも最後の夜を除いて、ありませんでした。 母に看病一つさせず全力疾走で生きて、死んだ父の人生は、彼が好きだったジャクソン・ブラウンの曲、「孤独なランナー(Runnning on Empty)」そのものだったと思います。

僕は21歳でその道こそ僕の進むべき道だと宣言していた いつからあの道が今僕が立っている道に変わってしまったのか 僕には分からない 僕は走り続ける 気力が失せるまで 僕は走り続ける あと先考えずに走るんだ 僕は走り続ける 太陽に向かって それでも僕は遅れをとっている

https://blog.goo.ne.jp/tama-4649/e/e6c61753e74b955688db64c88cc5d134

通夜・葬儀は地方の斎場で行いましたが、稀に見る立派な葬儀で、参列者も通常より遥かに多かったそうです。 2021年11月の日本はコロナ禍始まって以来最も感染状況が落ち着いていて、飲みに行ったり人が集まったりできる状況でした。 おかげで、父に家族を看取って貰ったという患者さんご家族や、趣味繋がりの方、仕事仲間の方などなど、多くの方々がご会葬下さいました。 仕事にも趣味のヨットや映画にも全力で、一時もゆっくり過ごすことのなかった生活の中で、多くの人のことを好きになり交流を持ち続けていた父の人間的な魅力や社交性には感服しました。

私は技術者なので、科学に基づいて物事を理解し、それをどう現実社会で応用し人類の幸福に役立てるか?ということを日々考えています。 非科学的なものを信じることはないし、データに基づかない意思決定をすることは日常生活でもほとんどありません。 しかし、今回ばかりは偶然が重なっただけと言うにはあまりに超現実的な事象が多くの人に起こっていたことを聞き、ちょっと物事の見方が変わった気がします。 世の中、単なる偶然とは思えない不思議な出来事があるんだと思うようになりました(ヤバい方向に突き進みかけている人みたいに見えますが、違います。笑)。

  • 父の旧い知人の方で、多忙な上に遠方在住だったのにたまたま葬祭場の近くに来ていたり、たまたま参加するはずだった別の予定がキャンセルになって時間が空いていた方が複数名いました。タイミングよく通夜・葬儀に参列することが出来たことを、信じられない、父に呼ばれたんだろうと仰っていました。

  • 父の通夜の日に献奏をして下さったバイオリニストの方は、焼香をしたときに数珠が切れたそうです。父がそこに居ることを知らせてくれたんだろう仰っていました。

  • 母が父とお揃いで30年近く前に購入した結婚記念の腕時計は電池が切れていたそうです。亡くなった日なのか、通夜葬儀の後なのかバタバタしていていつ止まったのか正確には分からないと母は言っていました。これだけでも信じ難い偶然だと思います。

私自身も、父が亡くなる前日の間違い電話は、ただの偶然とは思えないです。 これら全て、父の采配だったんだろうと家族で話しました。

このように多くの逸話を残して、この世を去った父を誇りに思います。 最高に格好いい父親でした。 仕事も趣味も何事にも積極的で、外科医としてプロフェッショナルであった父は看取った患者さん・亡くしてきた家族・友人・知人たちとあの世でも忙しく交流していることだろうと思います。 父の冥福を祈ります。

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追記

父の命日となった2021年11月19日は部分月食だったようです。 慌てて新幹線で帰って、葬儀の準備やら家族の励ましに来てくれた方やらで実家が騒然としていたので私は月を見る余裕はありませんでしたが、3歳の姪っ子が月が赤い、と指差して言っていたような気がします。

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