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140文字に収まらないテクノロジーとか日常とかのこと

アメリカ経由でのカナダ旅行記 ③

気づけば帰国して1ヶ月以上経っていました。

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過去2つの記事ではカナダでの出来事を書いていなかったので、カナダでの出来事をいくつか書いて旅行記は終わりにしようと思います。 そもそもなぜカナダに行ったのかというと、住む場所を探すための下見が主な目的でした(8月に引っ越し予定)。 バンクーバー市内の観光地を中心に回りながら、Airbnbで予約した宿に泊まりつつ現地での生活を体験しました。 いくつか写真を紹介してこの旅行記は終わりにします。 もしバンクーバーに行かれる方いらっしゃいましたら、DMでもコメントでも何でも投げて下さい!

最も印象に残っているは湖です。 日本でもあまり湖に行くことはないので、特にバンクーバーの湖が綺麗かどうかもわからないのですが海とは違って風が少なくて水面が穏やかなことが多いので、映り込む景色が綺麗でした。

また、山もとても綺麗でした。 市街地からは遠いのでiPhoneのカメラではいまいちな写真になっていますが、生まれ育った九州や大学時代を過ごした沖縄にはない横に広い大きな山が目新しかったです。 今住んでいる東京だとたまに見える雪が残っている富士山と似ている気はしますが、富士山はあの形の印象が強いので、カナダの山々の見た目は印象に残っています。

ダウンタウン大麻の臭い・浮浪者の奇行など気になるところもありましたが、そこそこ綺麗で色々買い物するには便利そうで悪くはなかったです。

旅行記・移住ブログをググって出てくる情報にはなさそうな地味に困ったことが1つあったので、書いておきます。 日本の電話番号で登録していた電話・SMSが使えなかったことです。 使えないのは当然ですが、なぜ困ったかというと日頃あまり使っていないネット銀行に置いていたドルを使いたかったのですが、暗証番号を忘れていました。 最近はパスワードマネージャーで管理していますが、管理をし始める前に作った口座だったので、完全に使えない状態でした。 電話で暗証番号を通知してくれるサービスがその銀行にはあったのに、使えませんでした。 円安なので、ちょっと残念でした。

まとめ

コロナ以後初めての海外旅行で、大きな刺激を得られました。 久しぶりに聞く英語ネイティブスピーカーのナチュラルなスピードでの会話はまだまだついていけませんでしたが、もっと英語を学ぼうと思いました。 旅行で上手くコミュニケーション出来ると、本当に楽しいですし、一つ一つの会話が思い出になります。 帰国時の羽田での検疫は聞いていたほど待たされることもなかったです。 紙の書類が多すぎたことは残念でしたが、、、 まとまりのない感じですが、一旦これで旅行記終わりにします。

アメリカ経由でのカナダ旅行記②

日本のパスポートとアメリカの税関の申告書

前回の記事と前後してしまいますが、アメリカの入国審査のことを書きます。 カナダへの乗り継ぎだけだったので、特に入国審査の準備をしていませんでしたが、結構色々なことを聞かれました。

入国時

  • 同行している女性(妻)との関係性は?
    • 夫婦は英語でmarried coupleというらしいが、ぱっと出てこなくでmarried?と聞かれてyesと答えて何とかなった
  • 何日滞在するか?
  • どこに泊まるか?
    • 宿の予約の証明を求められた
    • Airbnbでの宿泊だったので、予約完了のメールを見せたらokだった
  • 現金いくら持ってるか?
    • 2万円くらい持っていたのでabout 200 dollarsって答えたらOKだった
    • 現地についてから両替するので米ドルもカナダドルも持っていないと言っても特に怪しまれなかった
  • 入国の目的は?
    • sightseeingという教科書通りの回答でokだった
  • カナダのどこに行くか?
    • 山綺麗だよねって言われた
  • アメリカに来たことあるか?
    • New Yorkと答えたら、次はCaliforniaへ、と言われたw
    • カリフォルニア出身の人だったのかな、、

乗り継ぎ時

  • 荷物を受け取って出ようとしたところで、あなた達の荷物ですか?と確認された
    • よく聞こえなくてうっかりNoと答えてしまい、圧強めに再確認された、危ない

英語のやり取り

英語ネイティブのナチュラルスピードかつ、リスニングのテストのように何度も聞いたりすることが出来ない状況は想像以上に大変だと気付かされました。 久しぶりにうまくコミュニケーション出来ない状況に身を置けてよかったです。 このことは今回の旅行で何度も痛感することになります。 物を買ったり、何かを尋ねたりするだけでも100%言いたいことを言えない状況のストレスがちょっとずつ積み重なっていきました。

帰国後の英語学習

帰国してから意識して取り組み初めたのは、コピーイングという英語学習方法です。 ちょうどカナダに滞在しているときに以下の記事を読んで、帰国してからやり始めました。

anond.hatelabo.jp

聞こえた音をすぐに口に出すシャドーイングは有名だと思います。 コピーイングは音を音節に分解して音のつながりなどを意識した上でゆっくり真似した後にシャドーイングする学習方法です(不正確かもしれませんが、自分の理解です)。 これは何がいいのかというと、音節に分解して自分で発音した後だと、早口な英語の聞き取りの解像度が少し上がるんです。 実際に現地で課題として感じたことを解決出来るような学習方法に出会えたので、しばらく続けてみようと思います。

アメリカ経由でのカナダ旅行記①

前回の記事で随時追記していきます、と書いておきながら旅行中は落ち着いてラップトップを開く時間がなくて結局書けませんでした。 インターネットに繋げないことも時々あったので、いつも使っているScrapBoxではなくiPhoneのNotesに行った場所・やったこと・その時々で思ったことを記録していました。

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陰性証明書

はじめに大事なことを書いておくと、バンクーバーで米国と日本の入国に必要な条件を満たした陰性証明書をお安く取得出来るのはCare Pointというクリニックです。 以下のツイートにも書いていますが、Webから予約して、電話確認して、実際に現地でPCR検査を受けて無事帰国したので今のところは間違いない情報です。

さて、ここから旅行記っぽく書いていくのですが出発から帰国までの9日間の出来事は色々有りすぎたので、印象に残ったエピソードと写真を中心に紹介していきます。 まずはシアトルでの乗り継ぎ時にお土産物屋さんでの出来事です。 店員さんが居て暇そうにしているのに、高齢の白人女性から "Do you know much about electronics devices?" と聞かれました。 久しぶりのナマの英会話の割にはあっさり聞き取れたものの、どう答えるか非常に悩む質問でした。笑 電子工学の学位を持っているわけでもないけど、ガジェットには普通の人には詳しいかな―なんてことを考えながら、コミュニケーションをスムーズに成り立たせるためにノリで "Yes" と答えました。 すると、機内で使えるイヤホンを買いたいとのことでした。 いや、それ大体どれでも使えるし電子機器に詳しいかどうかっていうレベルじゃないでしょ、、と思いながらお安めのイヤホンをオススメしてその場を去りました。

ちなみにイヤホンはearphoneということもあるらしいですが、earbudsという方が一般的らしいです。 どのearbuds買えばいいかな?と聞かれたときに、AirPodsに聞こえてしまい、はじめApple製品の方を案内してしまったのでした。

いきなりちょっと面白い出来事があったので、この先の旅が楽しくなりそうな予感がした出来事でした。 なんとなく、自分がオタクっぽく見えたので店員さんではなく自分に聞いたんだろうね、と一緒に居た妻と話して納得しました。笑

シアトル・タコマ国際空港のお土産物店にはシーホークスグッズが沢山あった

アメリカ経由でカナダに旅行する(※2022年4月28日現在)

成田空港の出発便案内ボード

25日から28日までの4日間結婚休暇を頂いています。 早めのGW突入で16連休になりました。 思いっきり楽しんできてね、という感じで送り出してくれた部署・チームメンバーに感謝です。 16日は長いようで、6日目まで、あっという間に終わりました。 AWS Skill BuilderでDevOps Engineer Professionalの問題を20問解いたくらいで、旅行の準備などプライベートタスクばかりやって時間が過ぎ去っていきました。 ここ、1ヶ月半くらい仕事が結構忙しかったので多少平日に出来ないようなことも出来て、だいぶ気持ち的には休めました。

さて、1ドル130円を超えるという円建てで支払うにはちょっと辛い時期の旅行ですが、アフターコロナの渡航は各種書類の準備等が面倒です。 ぱぱっと箇条書きでまとめていって、あとから追記していきます。

飛行機

アメリカ特有

  • ワクチン接種証明
  • 陰性証明書(出発日前日の日付で取得する必要がある)
  • CDCへの情報提供(ANA特有の書類かもしれない)
  • 宣誓書

カナダ特有

  • ワクチン接種証明
  • ArriveCanのアプリに登録

その他

  • SIMフリースマホを用意しておく
  • プリペイドSIMカードを買っておく
  • 各種書類を印刷しておく
  • 旅行保険の確認をする(特に現地でコロナかかった場合の補償)
  • 現地での現金の引き出し方・使うクレジットカートを決めておく
  • (そもそも)円高のときに両替をしておくか、外貨も持っておいてそのときに強い方の通貨を使うようにする
  • 持ち物リストを作る(薬、メガネなど必須のものは冗長化しておく)
  • たびレジ登録

飛行機グッズ

  • のどぬ~るぬれマスク
  • ネックピロー

帰国時

  • 帰国72時間前以内ののPCR検査を現地で予約する
  • 帰りもアメリカ経由なので、搭乗前日の日付での陰性証明書が必要、経由国の入国準備が面倒なので直行便がオススメです

kubectlのエイリアスの設定(zshの場合)

これを.zshrcに書きましょう。

source <(kubectl completion zsh)
alias k=kubectl
compdef __start_kubectl k

以下のように補完されます。 kに続けてaと打った例。 コマンドの簡単な説明もついてて良いです。 エイリアスはkにしてますが、kcとかお好きな短いものを設定して下さい。

$ k a
alpha          -- Commands for features in alpha
annotate       -- Update the annotations on a resource
api-resources  -- Print the supported API resources on the server
api-versions   -- Print the supported API versions on the server, in the form of "group/version"
apply          -- Apply a configuration to a resource by file name or stdin
attach         -- Attach to a running container
auth           -- Inspect authorization
autoscale      -- Auto-scale a deployment, replica set, stateful set, or replication controller

公式ドキュメントのここに載っていました。

父を膵がんで亡くしました

私の父は昨年12月、還暦を迎えたばかりの頃に膵がんで余命半年と宣告を受けていました。 父のことはこの1年間何度も文章にしようと思っては、悲しくなるだけなのでやめてきました。 父が私の人生に与えた影響や偉大だった父のことを周りの人に知ってもらうために書いてみました。


父は外科医でした。せっかちで細かい性格で、たまに怒りを爆発させるタイプの人でした。いつも仕事が忙しかったんだと思います。 休日も常に急いでいる人でしたが、子供の頃は毎週のように必ずヨットで海に出たり、娯楽施設に連れて行ってくれたりしていました。国内旅行にもよく家族で行ってました。 父がぐうたら過ごしている姿は一度も見たことがなかったです。 父は私にとっては人生で最も対立した人であり、最も尊敬し憧れた人でもありました。 特に幼少期は家庭では厳しくて、怒り出したときはいつも心底怖かったです。 思春期あたりから、自分からは積極的に関わらないようになっていました。受験期あたりから、心底父が嫌いでした。 それでも父はたまに寿司屋に連れて行ってくれたり、車で出かけるけど乗っていくか?と誘ってきてくれていました。 私が大学に入って好きなことを学んで、天職だと思える仕事をするようになって、たまの帰省でやっと楽しく過ごせるようになりました。 そんな父が人生を通して私に残したメッセージは、

  • プロフェッショナルであれ(Be professional)

  • 全身全霊を捧げ尽くせ(Be running on empty)

の2つだったと思っています。

このたった2つですが容易でないことを体現しながら私は生きていかなければいけないと思っています。 また、父が背負ってきた家族のリーダーシップのようなものを長男である私が背負っていかねばならないと思っています。 この喪失感が消えることは生涯ないと思いますが、忌引明けの今日からまた錨をあげ、帆を張って人生という大海原に出ていきます。


以下、通夜・葬儀の思い出話です。

父は亡くなった11/19(金)の前日まで九州の片田舎で地域医療に貢献したい一心で医師として働いていました。 この日、人生初めて、父からの間違い電話がありました。往診に向かったものの、帰りに歩くのがキツくて、スタッフに迎えを頼む電話だったようですが、東京に居て仕事中の私にかかってきました。 電話に出たのが私だと気づいて、間違いだよ、と言ってすぐに電話を切られましたが、それが最後の会話になりました。 そのとき、嫌な予感がしました。うっかりミスなどしない父なので意識がハッキリしているのか不安がありました。しかし、私は仕事中だったこともあり、母に間違い電話があったことだけを伝えて、業務に戻りました。 父はその後、土曜日に開催予定だった私の結婚祝いの食事会に備えて、床屋で髪を切って自分で車を運転して帰宅していたそうです。 帰宅後、仕事のメールまで書いていたようですが、その夜は嘔吐し階段の昇り降りするときなど体に力が入りづらいような様子だったそうです。

寝る前に次の日に仕事に行くためのネクタイを選んで寝室に置いていたそうです。 そして迎えた金曜日の朝は仕事に行かないといけない、と言いつつ起き上がることが出来ず、午前9時33分に自宅で静かに息を引き取ったそうです。

この1年間、抗がん剤放射線などの治療をしないという選択をし、事業の継承・様々な家のことの片付けを全て済ませて旅立っていった父は独立心と責任感が人一倍強かったと改めて思います。 同居していた母や弟の手を借りて生活することも最後の夜を除いて、ありませんでした。 母に看病一つさせず全力疾走で生きて、死んだ父の人生は、彼が好きだったジャクソン・ブラウンの曲、「孤独なランナー(Runnning on Empty)」そのものだったと思います。

僕は21歳でその道こそ僕の進むべき道だと宣言していた いつからあの道が今僕が立っている道に変わってしまったのか 僕には分からない 僕は走り続ける 気力が失せるまで 僕は走り続ける あと先考えずに走るんだ 僕は走り続ける 太陽に向かって それでも僕は遅れをとっている

https://blog.goo.ne.jp/tama-4649/e/e6c61753e74b955688db64c88cc5d134

通夜・葬儀は地方の斎場で行いましたが、稀に見る立派な葬儀で、参列者も通常より遥かに多かったそうです。 2021年11月の日本はコロナ禍始まって以来最も感染状況が落ち着いていて、飲みに行ったり人が集まったりできる状況でした。 おかげで、父に家族を看取って貰ったという患者さんご家族や、趣味繋がりの方、仕事仲間の方などなど、多くの方々がご会葬下さいました。 仕事にも趣味のヨットや映画にも全力で、一時もゆっくり過ごすことのなかった生活の中で、多くの人のことを好きになり交流を持ち続けていた父の人間的な魅力や社交性には感服しました。

私は技術者なので、科学に基づいて物事を理解し、それをどう現実社会で応用し人類の幸福に役立てるか?ということを日々考えています。 非科学的なものを信じることはないし、データに基づかない意思決定をすることは日常生活でもほとんどありません。 しかし、今回ばかりは偶然が重なっただけと言うにはあまりに超現実的な事象が多くの人に起こっていたことを聞き、ちょっと物事の見方が変わった気がします。 世の中、単なる偶然とは思えない不思議な出来事があるんだと思うようになりました(ヤバい方向に突き進みかけている人みたいに見えますが、違います。笑)。

  • 父の旧い知人の方で、多忙な上に遠方在住だったのにたまたま葬祭場の近くに来ていたり、たまたま参加するはずだった別の予定がキャンセルになって時間が空いていた方が複数名いました。タイミングよく通夜・葬儀に参列することが出来たことを、信じられない、父に呼ばれたんだろうと仰っていました。

  • 父の通夜の日に献奏をして下さったバイオリニストの方は、焼香をしたときに数珠が切れたそうです。父がそこに居ることを知らせてくれたんだろう仰っていました。

  • 母が父とお揃いで30年近く前に購入した結婚記念の腕時計は電池が切れていたそうです。亡くなった日なのか、通夜葬儀の後なのかバタバタしていていつ止まったのか正確には分からないと母は言っていました。これだけでも信じ難い偶然だと思います。

私自身も、父が亡くなる前日の間違い電話は、ただの偶然とは思えないです。 これら全て、父の采配だったんだろうと家族で話しました。

このように多くの逸話を残して、この世を去った父を誇りに思います。 最高に格好いい父親でした。 仕事も趣味も何事にも積極的で、外科医としてプロフェッショナルであった父は看取った患者さん・亡くしてきた家族・友人・知人たちとあの世でも忙しく交流していることだろうと思います。 父の冥福を祈ります。

www.youtube.com

追記

父の命日となった2021年11月19日は部分月食だったようです。 慌てて新幹線で帰って、葬儀の準備やら家族の励ましに来てくれた方やらで実家が騒然としていたので私は月を見る余裕はありませんでしたが、3歳の姪っ子が月が赤い、と指差して言っていたような気がします。

www.astroarts.co.jp